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    チャンピオンズリーグ20:45レアル・マドリードvsボルシア・ドルトムント

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    デポルティボデポルティボ
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    リーガ, 15節
    サンティアゴ・ベルナベウ
    2016/12/10
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    リーガ20:45レアル・マドリードvsデポルティボ

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  1. クラブが初めて獲得した欧州チャンピオンズカップの優勝杯を掲げるセビジャーノ
  2. 当時最高のセンターだったルイク
  3. タイトル・コレクター、エミリアーノ

1961-1970

サポルタ主導のクラブからの後押しとフェランディスの眼力により、レアル・マドリードは伝説的なチームへと変貌していく。エミリアーノ、ルイク、セビジャーノ、ブラベンダーらが活躍した時代でもあった。国内で勝利を重ねつつ、ヨーロッパでも地位を高め、1964年には欧州チャンピオンズカップ初優勝を達成。それ以降はタイトルの奔流が始まる。

西ヨーロッパから欧州チャンピオンズカップ決勝に進出したのはレアル・マドリードが初めてだった。しかし、1962年にはディナモ・トビリシ、1963年にはCSKAモスクワと、当時、国際舞台で絶対的優位を保っていたソ連勢の前に苦杯をなめる。1964年は東京オリンピックの準備のため、一時的に大会不参加となった。

3度目の欧州チャンピオンズカップ決勝ではスパルタク・ブルノと対戦。バスケット・セクションの長、フェランディス、そしてホアキン・エルナンデス監督に率いられたチームはエミリアーノ、ルイク、ボブ・ブルゲスら実力を発揮。第1戦では11点差で負けた後、フィエスタ・アレグレでの第2戦では20点の差をつけて勝利。創設に尽力した大会で初めてトロフィーに名を刻むことができた。
 
その1年後、再びソ連勢との戦いに勝ち抜き、マドリードは連覇を遂げる。CSKAモスクワとの決勝ではまたしてもエミリアーノとルイクが活躍。これ以降、チームが王者の地位を譲ることは1960年代、1970年代までなかった。

1961 - 1970
  1. 初めての欧州チャンピオンズカップ

    選手たちは1964年に初めて獲得した欧州チャンピオンズカップと記念撮影した。ホアキン・エマンデス監督は病気により数ヶ月後に亡くなった(フェランディスがスポーツディレクターに就いていた)。

  2. 三冠

    サンティアゴ・ベルナベウは2年連続2度目の欧州チャンピオンズカップに優勝を果たしたチームを祝福した(1965年)。そのシーズン、レアル・マドリードはリーガ、コパ、欧州チャンピオンズカップに勝利した

  3. 5シーズンで4度の欧州チャンピオンズカップ獲得

    5シーズンで4度の欧州チャンピオンズカップ獲得

  4. ヨーロッパ最高のチーム

    練習場で初ヨーロッパ4タイトルと記念撮影したレアル・マドリードメンバーとペドロ・フェランディス。

フェランディスの人材発掘旅行

チームの質を高めるため、ペドロ・フェランディスは何度となく、有望な選手を見つけるべくアメリカに飛んだ。最初に加入したアメリカ人選手はウェイン・ハイタワーだった。ハーレム・グローブトロッターズでプレーしながら、NBAへの参加資格が下りるのを待っていたセンターだが、フェランディスはその生まれ故郷フィラデルフィアを訪れて説得した。スペインでは1961-62シーズンしかプレーしなかったものの、スペインリーガで最多得点を記録。チームが初めて欧州チャンピオンズカップ決勝に進出するのにも貢献した。続くフェランディスのアメリカ旅行はより実り多きものとなり、クリフォード・ルイク(1962年)、ウェイン・ブラベンダー1967年)、ウォルター・ザービアック(1973年),ら、クラブ史に残る選手を入団させている。

フェランディスの人材発掘旅行

規則を越えた戦略家

常に他者より一歩先を行くペドロ・フェランディスは規則を逆手に取ることも知っていた。1962年の欧州チャンピオンズカップ・ベスト16、バレーゼとの1回戦にチームは疲労を抱えて挑むことになる。同点のまま、試合終了まであと数秒を迎えると、延長戦突入は不利と考えたフェランディスはロレンソ・アロセンに自軍ゴールにボールを入れるように指示。この結果、第1戦に負けたマドリードだったが、ほんの2点差だったため、フィエスタ・アレグレでの第2戦で簡単に逆転勝ちすることができた。この出来事は後にFIBAに規則変更を余儀なくさせている。

規則を越えた戦略家

新しいホーム、新しい大会

1966年1月6日には、レアル・マドリードのシウダード・デポルティバにバスケットのアリーナがオープンする。フィエスタ・アレグレの2倍の収容力を持つ、クラブ初所有となるコートだった。ライムンド・サポルタはオープン記念の国際大会をセッティング、イタリアのイグニス・バレーゼ、ブラジルのコリンチャンス、シカゴ・ジャマコ・セイントが招待された。当初はただ国際カップと呼ばれた大会だが、後にクリスマスカップとして2004年まで続くことになる。その40年弱の間、スペインの首都では年末に世界最高レベルのチームとレアル・マドリードの試合が繰り広げられた。クラブの威信を高める伝統となった大会は、同時に国内のバスケット人気上昇にも貢献している。

逆境を跳ね返して4度目の優勝

1試合の勝負となった欧州チャンピオンズカップ決勝が1967年にレアル・マドリードの本拠地で行われ、そのことがチームにとって有利に働く。シメンタール・ミランを下し、4年間で3度目の欧州タイトルを獲得した。1968年にも決勝に進出するが、チームはカルロス・セビジャーノが負傷中、エミリアーノも背中の痛みに苦しんでいた。スパルタク・ブルノを前に連覇は難しいと見られたが、それでもフェルナンディス監督率いるマドリードは勝利をもぎ取る。その時までに11回プレーした欧州チャンピオンズカップで優勝は4回。ヨーロッパ最強のチームと化した時代だった。

逆境を跳ね返して4度目の優勝
獲得タイトル
欧州チャンピオンズシップ - 4

欧州チャンピオンズシップ

4
リーガACB 1992-93 - 9

リーガACB 1992-93

9
Copas de España - 6

Copas de España

6
クリスマスカップ - 4

クリスマスカップ

4
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